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ドッグルハウスとは

家康公エピソード 磯田道史のちょっと家康み

第一話 浜松の発展は信長の命令から始まる

 皆さん、こんにちは。
 徳川家康公の出世エピソードを「広報はままつ」に連載します。自治体の広報誌での連載は、初めての経験。貴重な古文書を読み解いた成果を浜松市民の皆さん、だけに、お届けしたいと思います。これから一年間、私の『ちょっと家康み』にお付き合いください。

 

磯田道史
《磯田道史 プロフィール》
 岡山市出身
 静岡文化芸術大学 文化政策学部
 国際文化学科 教授
 慶應義塾大学大学院文学研究科修了
 茨城大学准教授を歴任
《著書》
 『武士の家計簿』(新潮社 2003年)
 『日本の叡智』(新潮社 2011年)
 『無私の日本人』(文芸春秋 2012年)
 『歴史の読み解き方』(朝日新聞出版 2013年)

 

 さて、家康公が浜松に城を築いたのは元亀元年(一五七〇)。家康公は、どうして浜松の地を選んだのでしょうか。

 

 家康公は、はじめ今川義元に従っていましたが、一五六〇年の桶狭間の合戦で義元が殺され、今川家が落ち目になると、尾張(愛知県)の織田信長と手を結び、浜松のある遠江地方の領土化を進めました。遠江の国府(県庁)は、磐田の見付にあり、ここに城を築けば、名実ともに遠江の主です。家康公は、見付に居城を築きたいと思いました。

 

 岡崎城は長男の信康に任せ、家康公は、見付城の普請を始めます。屋敷割が進み、この見付城で、乱世をどのように生き抜いていくか、いよいよ未来を展望していた矢先、信長からまさかの‘待った’がかかりました。

 

「もし、信玄と敵対した場合、お主が見付にいたら、天竜川が邪魔になって救援に向かうことができない。たとえ渡ることができたとしても、川を背にすることになる。お主の居城は‘浜松’にしなさい。」と、とんでもない指図が示されました。ここまで進んでいる城普請を途中で切り上げては、負担ばかりが残ってしまう。しかし、そのまま続けては、信長に逆らうことになる。一方の信長は、同盟相手の懐事情など一切考える由はありません。思案の結果、しかたなく、見付をあきらめることとしました。

 

 家康公は、浜松で城普請を始め、浜松の都市づくりが始まりました。信長の身勝手は、浜松に恩恵をもたらしました。そして、江戸時代、幕末を越えて、昭和に入ると、楽器やオートバイなどのモノづくり産業により都市が発展し、人口八〇万人の政令指定都市に成長しています。

 

 今、皆さんがお住いの浜松は、信長の言葉によるものなのです。

 

 後年、家康公は、次のようにこぼしたと「前橋酒井家旧蔵聞書」に記されています。

「信長に属する前に、まずは信玄についておけばよかった。そうすれば、信長も、わしのことを、もう少し大切にしてくれたのに。」

 

 浜松城に居を構えたその日から、一七年間の苦難の日々が始まります。

 

 

第二話 未来を見据えた深慮遠謀の戦略家

 信長の命令によって、家康公は、浜松に居城を構え、基盤を固め始めます。ここ浜松は、もともと今川家の所領でしたが、桶狭間の戦い以降、後継ぎの氏真は、父義元の弔い合戦を起こそうとさえしません。氏真はよほど力がない、情けない大名と周囲から評価されていました。こうなると、遠江をめぐって、家康公とぶつかるのは、甲斐の武田です。

 信玄は、家康公が侮れぬ武将と、よく知り得ていました。勇猛果敢な三河武士の結束は、家康の力あってのもの。家康さえいなくなれば遠江、三河は一挙に手中に収めることができる。信玄は、家康暗殺を企てた形跡があります。伝説かもしれませんが、史料に基づいて詳細をここに紹介しておきましょう。

 白羽の矢が立ったのは、武田家臣・馬場美濃守氏房の子ども「庄之助」。彼は、絶世の美男子と評判の童で、信玄も、こやつならば、必ずや家康も傍に置くであろうと考えました。大名家では、顔立ちの整った男子を秘書役としていました。これは、戦国の慣わしで、決して珍しいことではありません。庄之助に、謀を授けた上で、甲斐から放逐したように見せかけ、浜松に潜入させました。美しい童が浜松にいる。噂を聞きつけた家康公は、児小姓に迎え入れ、まんまと信玄の策略に乗ってしまったのです。一方の庄之助は、子どもながらに、信玄からの謀をひた隠しにして、好機をいつかいつかと窺っていました。

 警戒が薄くなったある夜。庄之助は、決死の覚悟で、家康公の寝込みを襲いました。まさに、家康公の喉元に刃が刺さろうとした瞬間、「ばたり」と、床の間の仏像が倒れました。その音に気を取られた、ほんの一瞬の躊躇のうちに、庄之助は捉えられてしまいます。もはや自分の命もここまでと考えたことでしょう。

 しかし、家康公は、庄之助に信玄の謀をすべて自白させた上で、武田の元へ無傷で送り返すのです。

 「殿、いかがして。」徳川の家臣たちは腑に落ちない様子。家康公はこう答えました。

 「庄之助を武田の元に返せば、わしのことを寸分たる隙もない名将であると、失敗の言い訳として吹聴するであろう。また、庄之助を助けた懐が広い男だということが広まれば、将来、武田の家臣団も徳川に心を寄せることが、あるやもしれない。武田に大きな波紋を広げるはずだ。」

 家康公は、目先の利益だけにとらわれない、未来を見据えることができる深慮遠謀の戦略家であったのです。

 「長い目で考える」。家康公の思考法は、私たちの人生設計にも、浜松のまちづくりにも、大きなヒントになるのではないでしょうか。

 

 

第三話 いざ出陣!三方ヶ原

 元亀三年(一五七二年)、三方ヶ原の戦いの日、浜松では珍しく雪が降っていた可能性が高いのです。徳川家発祥の地・松平郷に残された『松平由緒書』にも「十二月二十二日の事であれば、寒くはあり、雪は深く」とあります。

 

 通説では、武田軍は二万八千人前後、徳川軍は、織田信長からの援軍三千人と合わせて、一万一千人と言われています。しかし、織田の援軍はもっと多かったかもしれません。三千人といえば、わずか八万石の動員兵力です。当時の織田家は畿内まで勢力圏におさめ三~四百万石の力はあり、来援した武将の顔ぶれをみても「援軍三千人」は過小で不自然です。

 

 事実、武田家の軍術書「甲陽軍鑑」には「信長、加勢を九頭までつかまつる」とあります。九頭=二万人前後の援軍が準備されたとする史料は他にもたくさんあります。しかし、この援軍は岡崎・豊橋・白須賀まで広域に分散配備され、浜松城に集結していませんでした。

 

 信長は武田軍との急戦をさける方針でした。「浜松城は出るな。援軍がたどり着くまで野戦はするな。」と厳命していました。家康の家臣たちも決戦には反対で「敵は三万余。しかも、信玄は合戦慣れした侮れぬ武将。対する御味方は八千内外です。」(『三河物語』)と、家康をいさめました。

 

 しかし、家康公には、戦わなければならない事情がありました。自分の裏庭=遠州の領土が武田軍に荒らされています。これに黙っておれば、遠州の人々は、家康のことを「ふがいない三河のよそ者。年貢だけ取って自分たちを守ってくれないダメ領主」と思って見限るかもしれなかったからです。

 

 そこで、家康公は、こぶしを握り締め、意地を通すことにしました。「そんなことは、どうでもよい。戦に多勢無勢はない。天道次第である。」三河武士は忠義者です。家臣たちは家康公に「是非に及ばず(しかたがない)。」と答え、命令に従って命を賭ける覚悟を決めました。武田軍を追撃するため、徳川軍は、雪の中を出陣してゆきました。

 

 この「三方ヶ原の戦い」の情景を、浜松在住の日本一のジオラマ作家・山田卓司先生が作品化されます。私も鎧や旗印などの考証で協力しました。幸い、歴史家を惚れ惚れさせるほどの緻密な名品に仕上がりつつあります。戦いの推移を何点ものジオラマで追っていく大作。とにかくすごい。完成が待ち遠しくて仕方がありません。一月二一日から、浜松市美術館でお披露目される予定です。

 

 

第四話 家康公、大敗を喫する

 新年、おめでとうございます。今年は家康公の四百回忌。浜松市でも家康公顕彰四百年記念事業が元日からスタートします。私としては「家康公三十歳時のお顏復元」事業が楽しみです。家康公は若い時は目がパッチリした好男子でしたが、長生きして晩年のでっぷりした肖像画か出回ったため、狸親爺のイメージがついて損をしています。特殊メイクの専門家の協力を得て、浜松時代の颯爽とした青年家康の顏が復元されます。私も日本中から家康公の木像や肖像画の写真を懸命に集めて復元を支援しています。完成したあかつきには、ぜひご覧ください。

 

 昨年は、小学生の引間城「一日体験発掘」が実現しました。一般公募で小学生をつのり、浜松城の前身・引間城の発掘体験をしてもらおうという企画でした。私の提案に市文化財課が理解をしめしてくださいました。当時の土器の破片を手にしたときは、感動で心が躍りました。「子どもの浜松を愛する心を発掘したい」という目標は達成できたと思います。

 

 現場からは、凄まじい量の土器が出土しました。三方ヶ原の戦いでは、最低でも一万人がこの城から出陣しています。出陣式では、酒を飲み干し、器を一斉に地面に叩き付けて割ります。そのときの土器なのか。もっと昔の土器なのか。想像がふくらみました。

 

 家康公は、この引間城から三方ヶ原に出陣し、負けて帰ってきます。家康公は、夕闇に紛れながら、一路、浜松城(正確には引間城の元目口)に逃げ帰ることを決断しました。この家康公の逃げ方が、実に面白いのです。

 

 「道々ひたものの唾吐きなされ候」

 

 なんと、逃走中の混乱の中で、家康公は、側にいる護衛の家臣たちの刀に「ぺっぺっ」と、次々に唾を吐きかけたというのです。これには意味がありました。なにしろ夕闇にまぎれての敗走の中です。誰が自分の側をはなれず盾になって忠実に護衛してついてきているのか、顔が見えませんでした。

 

 それで家康公は、側にいるらしい家臣の刀に唾をはきかけ、マーキング(しるしつけ)をしたというのです。後で、家臣の刀をとりよせ、「お前の刀にはおれの唾がついている。ちゃんと、おれの馬脇について護衛していたな。よし恩賞をやろう」と恩賞を与える根拠にしました。「三河之物語」(「三河物語」ではない」)という書物に書かれています。

 

 寒い時期ですから、唾には痰が絡み、よい印になったのかもしれません。家康の人間的凄味は、このように追い詰められたときの並外れた冷静さにあることを覚えておいてください。

 

 

第五話 家康公の敗走路

 三方ヶ原合戦で負けた家康公が、どうやって浜松城に逃げ帰ったのか。私は疑問に思い、国立公文書館などで古文書の調査をしてきました。まだ学界で発表できていませんが、家康公の敗走ルートの手がかりが得られたので、浜松の皆さんにだけ、こっそりお教えしましょう。

 

 まず家康公の部将たちの撤退ぶりから見ましょう。一番見事に武田軍の追撃をかわしたのは本多忠勝でした。忠勝は台地上の道を整然と撤退したようです。『武功雑記』に、こうあります。
「(武田軍は)浜松(徳川)勢の撤退に追い込みをかけることにしたが、(浜松)城の後ろの犀ヶ崖に、甲州(武田)勢が知らずに落ちて死ぬ者が出た。その時、本多忠勝は三百騎ばかりで静かに退いた。見事であった。信玄はこれを見て、あれは本多忠勝だろう。忠勝のほかに、あんなふうに撤退する者はいるまい。討ち取るな、と下知した」。「本多系図」には、「犀ヶ崖で味方が危うくなった時、忠勝が下知し、隊列を正して、全軍を元目口から城内に入れた」と書かれています。

 

 鳥居元忠は、台地の麓を退却しました。中沢の交差点から秋葉街道を通り、元浜町付近で武田軍の動きを探っていました。絶対、家康公の元へ帰らねば、と馬を返したところへ、遠矢が飛んできて、鞍を突き破り、足に突き刺さりました。これにより、元忠は生涯、足に障害を持つことになりました。

 

 一方、榊原康政は要領がよく、元忠と同じルートをたどりますが、元浜町の辺りで武田軍に追い越され浜松城に入れなくなりました。康政は、なんと磐田市掛塚まで逃げるのです。元忠は、家康公の元へ引き返す。一方、康政は、更に遠くへ逃げる。退却の混乱状態の中の出来事でした。

 

 さて、家康公の敗走路についてお伝えしましょう。「榊原家伝」にこう書かれています。「権現様は、およそ八千でご一戦あそばされたが、多勢に無勢で勝利を失い、ようよう六、七十騎で退かれた。康政公も討死しようと、敵陣へ遮二無二乗り入れたところ、竹尾平十郎と申す者が『上様は西の山陰を退かれました』といった」。

 

 この山陰は康政が逃げた元浜町付近から見て西側になります。「榊原家伝」から推測すると、家康公は中沢交差点辺りから台地の山陰を通り、引間城の元目口を目指したことになります。家康公は台地の上ではなく、台地の麓を隠れるようにして逃げたのでしょう。中区曳馬に「阿弥陀橋」といって家康が撤退時に通ったとの伝説のある橋の跡がありますが、ほぼ場所が一致します。案外、荒唐無稽な伝説ではないのかもしれません。

 

 

第六話 開門!元目口

 家康公は三方ヶ原の戦いで大敗した時夕闇にまぎれて浜松城へ馬で逃げ帰りました。この時のことを家康公はのちにこう回想したそうです。「わしが三方ヶ原から逃げ帰った時、(お供は)ようよう七人ほどしかいなかった。それも野原の中を走って逃げた」(「寛元聞書」)。途中までは、六、七十人の家臣がいたのですが、次々に脱落して、浜松城に着く頃にはお供は七人だけになっていました。家康公の逃げ足が速かったのと、敵の追撃が厳しかったせいです。

 

 家康公は無事に浜松城の西門に着いたもののなかなか城内に入れませんでした。「鳥居家中興譜」には「(家康公は)三方ヶ原を退き(浜松城の)西の門よりは入られず、遥に大手の門より門外に(馬を)乗廻し、東に向ひ北に至て、玄黙口(元目口)より(城内に)入られた」とあります。城の周囲をうろうろし、やっと、たどり着いたのが、現在の市役所元目分庁舎南西(元西税務署)の元城町屋台置場の所=元目口でした。ここから南に向かう切通しの道は今も「古城」の雰囲気を残して、なんとも風情があります。この道こそ「家康公の出陣と生還の舞台」でした。私は、元目口のこの風情は浜松の宝だと思っています。開発で失われないよう祈っています。

 

 家康公は元目口にたどり着いたものの門内に入るのに一苦労しました。「畔柳家記」という史料に、その様子が書かれています。家康の家臣が「開けてくれ。殿のお帰りである!」と叫んだのですが、門番の返答は、なんと、こうでした。「そんな小人数で殿(家康様)が帰ってくるはずがない。(お前ら偽物だろう)」。そういって門番が門内に入れてくれなかったのです。家臣が「いや(本物の)家康様だ」と大声を張り上げ、門番は、家康公の顏を何度も確かめてようやく門を開いたといいます。

 

 しかし、この後の家康公が偉い。門番を叱らず「門を容易に開かなかったのは門番として職務に忠実。立派だ」と、かえって褒美を与えたのです。「竹流し」という銀の延べ棒を与えたそうですから、しまり屋の家康公にしては大サービスです。家康公は「良薬は口に苦し」を肝に銘じ、自分に言いにくいことを言ってくれる家臣を大事にしました。へつらわない「真の家臣」を育て使うのが上手でした。この人づくり人づかいのうまさが、家康公を天下人に押し上げたのです。

 

 

第七話 大久保彦左衛門との回想

 三方ヶ原の合戦のとき、家康公はどんな姿をしていたのでしょうか。一八世紀中頃の「大三河志」には「敵兵公を窺ふ、公の鎧は朱色なり」とあり、朱色の鎧を着ていたとされます。十分にありえる話です。なぜなら家康公の元服儀礼に使われた鎧が静岡浅間神社に残っていますが、それも紅糸で装飾した赤系の鎧です。三方ヶ原の合戦でも赤い鎧を着用していたものと思われます。家康公は、後年、目立たない色の鎧を好みますが、若いころは派手な赤色をした室町時代の形式の古めかしい鎧を着用していたようです。

 

 江戸中期の書物「士談会稿」のなかに、家康公と大久保彦左衛門が三方ヶ原の敗走について具体的に述べた箇所があります。家康公は語ります「信玄は三万ばかり。自軍は一万ほど兵力が不足し、合戦が暮れて小雨が降り出した」「秘蔵の鬼葦毛という馬に乗って逃げた」「中地道にシタシタと浜松に乗り出し、武田に食いつかれ、難儀はしたけれど、本多忠勝が敵味方の中を乗り回し、味方をよくまとめて引き上げた」と。

 

 現在「中地道」の位置は不明ですが、本多忠勝が通ったルートなので、浜松城に連なる台地の上でしょう。「シタシタと」とは「ゆっくり確実に」といった意味で、落ち着いた様を表しています。

 

 家康公は続けて「彦左衛門も達者に走り回ったな」と話しかけました。が、彦左衛門は仏頂面のまま返事もしません。いぶかしげに「やれ、彦左。寝てしまったのか」と聞きました。

 

 ところが、彦左衛門は家康公に反論。「寝たのではありません。殿があまりに大嘘を仰せられるからです。」「家康様の逃げ足は一番早く、元目口に乗り込んだ時には、拙者は、三四町も後方におりました。お逃げになったのは中地道ではないですよね。何が『シタシタと』ですか」と皮肉っぽく言い返しました。

 

 譜代の彦左衛門は、家康公のために命も捨てる忠実な家臣です。でも、家康公が事実と違うことを言えば、きちんと主人に反論しました。家康公は、彦左衛門の言葉に顔を赤らめながら「それほど速かったか。中地道かなと思ったんだが」と笑ってごまかしたそうです。三方ヶ原の敗走は、ぶざまなものでした。天下人となった時、恥ずかしくて「ワシは整然と撤退した」と嘘をついてみたのかもしれません。家康公にはそういう可愛いところがありました。

 

 

第八話 「空城の計」を検証

 家康公は三方ヶ原から命からがら逃げ帰ってきて、次のような策略を敵の武田軍に仕掛けたとされています。

 

 浜松城に入城すると、赤々と松明を焚くよう指示。城門を開けはなち、静まりかえって、まるで罠が仕掛けてあるかのように見せかけた。そして、家康公は、大の字になってグウグウ寝た。

 

 これが、通説とされている「空城の計」ですが、事実でしょうか。古文書をもとに検証してみたいと思います。

 

 家康公が浜松城に逃げ込んで、まず、行ったのは、敵軍の偵察でした。家臣に「悪いが周りの敵を見てきてくれ。褒美にこれをやるから」と腰の扇子を与えました。それは、もはや使えるものではなかったそうです。三河武士は正直者が多い。「畔柳家記」に「ボロボロの扇子を貰った」と、丁寧に書いてあります。

 

 次に、家康公は浜松城内の混乱を鎮める策を立てました。城内には「殿は大敗。お討ち死に」との噂が広まり、大混乱となっていました。そこで家康公は「自分は城内にいてまだまだ抗戦できる」ことをアピールしました。城内の銃をあつめ「城外に放て」と命じたのです。その銃声を聞き、敗走した家来が少しずつ城に戻ってきました。武田軍も鉄砲に打たれてはかなわぬと、城の向かいの丘まで来て進軍をとめました。

 

 しかし城内の混乱はおさまりません。そこで家康公は一世一代の大嘘をつきました。「どこかに坊主の首はないか」

 

 家臣の一人が坊主頭の首をみつけてきました。すると家康公は「その首を刀に差して、城中を走り回り、『信玄の首をとったぞ』とふれてまいれ」と命令しました。なんと、家康公は信玄の偽首をこしらえたのです。合戦には負けたが、信玄の首はとったと城内の領民にふれて回ったのです。すると「衆心、にわかに定まれり」(「武徳大成記」)。城内の人心はおさまりました。「武徳大成記」は幕府公認の史料。同じ記述は「武功雑記」にもあります。

 

 空城の計は「四戦紀聞」という史料にありますが、これは家康公の知勇をたたえるための後世の創作。徳川軍は静まりかえってなどいません。パンパン鉄砲を打って武田軍を威嚇。味方の敗残兵を城内に収容するため、城門を慎重に開いていたのです。家康公がやった計略は、空城の計ではなく、信玄の偽首づくりでした。

 

 

第九話 信玄が浜松城を攻撃しなかったワケ

 三方ヶ原合戦の時、徳川軍が追撃してくる武田軍を犀ヶ崖に落とした話は本当でしょうか。崖に布の橋を架け、武田軍を転落させたのでしょうか。

 

 どうも、ただの伝説のようです。『遠州古跡図会』(一八〇三年)にも「布橋を懸けたるは虚説なり」とあります。古い史料ですが、合戦から約六〇年後に書かれた「本多中務大輔忠勝譜」には「敵兵があとを追って犀ヶ崖まできて味方の兵が危うく見えた。その時(本多)忠勝は諸卒に下知して列伍を整え、軍を全うして、玄黙口(元目口)より浜松(城)に入った」とだけあります。

 

 しかし、合戦から一〇〇年以上経つと、話に尾ひれがつき、『武功雑記』(一六九六年)では「犀ヶ崖で案内を知らぬ甲州勢のなかに陥死する者がいた。その節、本多中務(忠勝)は三百騎ばかりで静かに退いた。見事であった」と変化します。一八三二年の『改正後三河風土記』になると、武田軍が「犀ヶ崖に落ちて人馬が落ち重なり」大量死した話にまで発展します。おそらく犀ヶ崖の話は伝説でしょう。武田軍の転落死者は多くはなかったと思われます。

 

 では、武田軍は、なぜ浜松城に攻め込まなかったのでしょうか。武田側の史料『甲陽軍鑑』から、その答えが見えてきます。

 

 信玄は、徳川軍を浜松城に追い込んだ後、大将たちを集めて軍議を開きました。「今、浜松城を攻めれば、落城までに早くても二〇日はかかる。その間に、信長が援軍にくるだろう。本坂(浜名湖北)へ五万、今切筋から三万もくるだろう」。そうなると三万足らずの武田軍は信長軍八万に挟み撃ちにされかねない。

 

 三河武士は頑強である。「三〇日は、浜松は落城しないだろう」。信長が援軍に来たら、浜松城の包囲網を解き、大軍を前後に迎え撃たなければならなくなる。長逗留していては危険。軍議では、こういった意見が出て、武田軍は、信長との交戦を恐れて、浜名湖の北へと去っていきました。

 

 これは正しい判断でした。武田軍は戦いを熟知しており、高い戦況分析力で、勝利を重ねていました。それで、無理はしなかったのです。このとき、武田軍は犀ヶ崖から「天林寺ノ山ニ旗ヲ立テ」(「鳥居家中興譜」)占領しました。信玄は犀ヶ崖から下池川町の天林寺あたりの丘に立ち、浜松城を眺めた後、颯爽と引き返して行ったのでしょう。

 

 

第十話 信康奪還大作戦

 三方ヶ原の合戦から十五年ほど前に遡ります。弘治三年(一五五七)、家康公は、今川義元の姪「駿河の御前」と結婚します。駿河の御前(後の築山殿)は「見形よき(『別本当代記』)」、大変な美人だったと伝えられています。

 

 この時、家康公は今川家の人質として駿府に住んでいました。二年後、長男・信康が生まれ、囚われの身ながら、ささやかな幸せを感じているところでした。その翌年、長女・亀姫が誕生するとき、幸せな家族を引き裂く大事件が起こります。桶狭間の戦いです。

 

 今川家当主の義元は、信長の奇襲に遭い、首を刎ねられました。義元は強いと思っていたが、あっという間に死んでしまった。大きな重しがとれた今どうすべきか、家康公は、頭をフル回転させました。まさに、その時、先祖代々の岡崎城から今川の代官が逃亡し、捨て城になっているとの報告を受けました。

 

 「捨て城ならば入ってしまおう」。家康は人質になっていた駿府には帰らず、今川をはなれて、岡崎で独立独歩の動きをはじめました。喜んだのは、家康公の家臣たちです。これで松平(徳川)家を再建できる。このまま今川方についていては、お手伝い戦ばかりさせられてしまう。家臣の中には、今川の血を引く信康が後継ぎになることさえ、よしとしない空気もありました。信長も「今川の勢力が弱まれば、家康は遠州以東の今川領を押領しはじめる。自分との同盟を求めてくる」。そう見ていました。

 

 一方、家康公には、心配の種がありました。正室駿河の御前と長男、長女が未だ駿府で人質になっていたのです。救出を企てたのは、外交担当の家臣・石川数正でした。目をつけた先は、今川と姻戚関係にある鵜殿家(上之郷城主)。まず鵜殿の嫡子を生け捕りにし、今川に信康との人質交換をせまることにしました。家康公は、甲賀の忍びと食事を伴にしながら作戦を立案。見事、生け捕りに成功させ、駿河の御前の父、関口刑部少輔を通じ、今川氏真に人質交換を持ちかけました。この交渉は成功。「築山殿と信康殿を探し出し、潜に三州へ送り賜ひける(『瀬名家略伝』)」。関口刑部少輔の奔走で家康は妻子を岡崎に取り戻しました。石川数正は、若君(信康)を先頭の馬に乗せて、颯爽と帰ってきました。岡崎の人々は「人質を返すなんて氏真は馬鹿だ」と嘲りました(『三河物語』)。

 

 これにより、関口刑部は、今川氏真の怒りを買い、切腹を余儀なくされます。岡崎城下が歓喜する中で、家康公と駿河の御前との溝が次第と広がっていきました。

 

 

第十一話 乱世の狭間に生きた築山殿

 家康公は、乗馬と水泳にうるさい教育パパでした。戦は常に勝つとは限らない。将軍は大抵のことは家臣にやってもらえますが、逃げるのだけは他人にかわってもらえない。だから乗馬と水泳は必須という考えでした。(『東照宮御実紀附録』)

 

 家康公は判明しているだけで十七人の子どもをもうけています。浜松に居城を移して四年目に、二番目の側室お万の方が次男を産みます。後の結城秀康です。ところが、家康は、この次男の存在を隠しました。正室・築山殿の嫉妬をおそれて隠したとされますが、私はそうは考えません。『武徳編年集成』に「於義丸(秀康)君、出生し給ふと云へとも未(いまだ)信長へ披露なく、今般、尚以(なおもって)御穏便」とあるのに注目しています。つまり、家康はこの子の存在を五年以上も信長に隠し続けたのです。なぜでしょうか。信長に人質にとられるのをおそれて秘匿したとみた方がよさそうです。

 

 家康と正室・築山殿との夫婦関係がこわれたのは織田・徳川の同盟のせいでした。家康公は、三河から東へ領土を拡げたい、信長は西へ侵攻したい。互いに背後の不安を解消したかったので同盟を結びました。築山殿は今川義元の姪ですから、信長の旧敵の一族。この同盟には邪魔者でした。

 

 信康と亀姫は、母・築山殿のことを強く慕っていましたが、家康公は、徳川家の将来を考え、築山殿と離縁したとみられる史料もあります。『別本当代記』です。これによれば、家康公は、子どもたちに分からぬよう、築山殿を鳳来寺へ花見に行かせ、その間に使いを出して離縁したとされます。その後、築山殿はまず伊勢で再婚後、離婚。京の清水寺に身を寄せ、真偽不明ですが、越前の朝倉義景の側室になったとも記されています。程なく、朝倉家は織田軍に滅ぼされ、再び流浪の身となりました。そこで、信康が、母親の窮状を見かね、家康公に引き取らせてほしいと訴え、引き取り先の住まいを、信康の居城、岡崎の築山に建てた。以来、築山殿と呼ばれるようになりました。築山殿は、それまでは「駿河の御前」と呼ばれていました。

 

 ところが、信康と信長の娘の政略結婚がきまると、築山殿は、この結婚に賛成できなかったようで、悶着が起きます。信長から築山殿に謀反の疑いがかけられたのです。「築山殿、武田勝頼をかたらわせられ、陰謀の聞え在りければ(瀬名家略伝)」という話になって、家康公は、信長に嫌疑をかけられた築山殿をかばいきれなくなってきました。

 

 

第十二話 夫にあてた手紙

 「私こそが実の妻です。家督を継いでいる三郎の母でもあります。もっとご賞玩(しょうがん)くださってもよろしいではないですか。父の関口刑部少輔(せきぐちぎょうぶのしょうゆう)は、あなたのために命を落としました。その娘である私に情けをかけるどころか、カッコウが鳴くような寂しい場所に追いやりました。床は涙の海となりましたが、唐土(もろこし)の舟も寄らないばかりか、だれ一人として私を気にかけてくれません。執念深いとお思いでしょうが、一念の慈鬼(じき)となり思いを知らせます」。岡崎の築山御殿(つきやまごてん)に隔離された築山殿(つきやまどの)は家康公に恨みの書状を送り、家康公は「いとなやましく思ひ、御書二目と御覧ならず」とその書状を捨てました(『士談会稿(しだんかいこう)』)。

 

 家康公が初めて持った側室は「西郡(にしごおり)の局(つぼね)」でした。西郡の局の祖母は築山殿の母親とは姉妹です。容姿が築山殿と似ていた可能性があります。
家康公は、仲違いになった正室の姿と重ね映しにしていたのかもしれません。心の底では築山殿のことを慕っていたのでしょう。

 

 一方、築山殿は「終に天正五、六年の比より、狂人とならせ賜ひて、種々の悪事をなし、後は武田勝頼(たけだかつより)をかたらはせられ、陰謀の聞へ在ければ(『瀬名家略伝(せなけりゃくでん)』)」と、側室が三男の長丸(ちょうまる)(徳川秀忠(とくがわひでただ))を出産したころ、精神的な疲労が頂点に達しました。そして、信長を陥れるため、武田家と密約を交わしているとの風評が広がりました。

 

 信長は、陰謀の噂を聞きつけ「信康と築山」の処置を家康公に命じました。「詮方(せんかた)なく、岡崎平左衛門(おかざきへいざえもん)・石川太郎左衛門(いしかわたろうざえもん)に命ぜられ、天正七年二月二九日、築山殿を殺害し賜ふ(『瀬名家略伝』)」。ただ、築山殿を斬ったのは別の史料では野中重政(のなかしげまさ)となっています。

 

 築山殿は、殺される寸前に「我が身は女なれども汝らの主なり。三年の月日に思い知らせん(『士談会稿』)」と叫んだという伝説もあります。後日、家来の一人が、築山殿の住まいを調査したところ、武田勝頼の起請文(きしょうもん)が入った道具箱を見つけ出しました。これを家康公に差し出したところ、「火にくべろ」と一言。その後は、何も語らなくなったそうです。家康は築山殿が好きだったと思います。殺害を命じておきながら、築山殿を斬ってきた野中重政に「女だぞ。なんで髪を剃り尼にして追放せず、殺したのだ」と怒り、以後、野中は武士をやめて隠棲(いんせい)したほどです(『野中豊之丞先祖書(のなかとよのじょうせんぞがき)』)。

 

 家康公は平和な世の中になったら、築山殿と再び一緒に暮らしたかったのかもしれません。乱世を生き抜くため、最愛の妻を殺さざるを得なかった。家康公は、静かにその悲しみを受け入れたのでしょう。

 

 

最終話 浜松を守り抜いた家康公

 家康公顕彰四百年記念事業は、いよいよクライマックスを迎えます。10月24日(土曜日)、25日(日曜日)に行われる「家康公祭り」と「家康楽市秋の陣」は、浜松におけるメインイベント。市民を巻き込んだ総がかり戦法で、浜松が家康公一色に染まり、大いに盛り上がりを見せるものと期待しています。

 

 先般のこととなりますが、7月1日の市制記念日に、德川恒孝さん(德川宗家18代当主)と武田邦信さん(武田家第16世当主)を、アクトシティ大ホールにお招きし「『徳川家と武田家』三方ヶ原の戦いから赤備えへ」と題したシンポジウムを開催しました。ご両人から、三方ヶ原の戦いの前後における家康公と信玄公の行動分析についてご意見を伺いました。

 

 「通り過ぎていく敵を見過ごしては、男が廃る」。三方ヶ原へ出陣する家康公についての德川さんのお考えでした。

 

 家康公は、信玄公の強さを十分に知り得ていました。先年、武田軍は、関東小田原にも足を踏み入れましたが、多勢を率いる武田軍の横行に、北条氏政は一戦も交えることなく見過ごしたのです。「氏政の行いは武名の瑕瑾。今、我が領地を踏み越えようとする敵に、一矢も報いず通してしまうことがあるか」。家康公は、北条の不甲斐ない行動を例に挙げながら、家臣たちを奮い立たせ、野戦に飛び出していきました。そして、大敗を喫する。

 

 だれもが予想した結果でしたが、戦では負けたものの、政治的には勝ちを収めたのかもしれません。浜松の領民たちは「ワシらのことを守ってくれた。見所のある殿様じゃ」と考えたことでしょう。一か八かの戦術でしたが、領民たちの心をつかむことができた。そこに三方ヶ原の戦いの意義があります。

 

 「武田の嫡流(直系の血筋)を守ってくれたのは、家康公である」。武田さんからのお話でした。天正十(一五八二)年武田勝頼を滅ぼした信長は武田狩りを始めます。甲斐の残党を根絶やしする考えでした。その最中、本能寺の変が起こりました。織田信長滅亡後、家康は武田家の残党狩りをせず、嫡流を江戸に置きました。徳川家はのちに武田の嫡流を高家として優遇しました。見せしめのために懲らしめた者は、いずれ敵となり、目の前に立ちはだかる。家康公は、小さな頃から人質生活を送っていたため、弱者の自覚を持っていました。こうして武田家臣団から信頼を得て、戦国最強とされる赤備えを取り込んでいったのです。

 

 徳川軍は、武田軍を受け入れてから、負けなし。最強の軍隊になりました。家康公は、信玄公を敬い、良い面も、悪い面も見本としていったようです。天下人になる素地は、信玄公と直接対決した浜松から築かれたのです。

 

 三方ヶ原の戦いを目前にしていたころ、武田軍に圧迫され続けていた家康公は、信長から、岡崎への退去を命じられます。
しかし、家康公は、信長の勧告を断固拒否。「浜松を去らば、刀を踏み折りて武士をやむべし(『武徳大成記』)」。
意地でも浜松に踏み止まったとする記述が残っています。浜松は、家康公にとって真に大切な“まち”だったのです。

 

 1年を通して掲載しました「ちょっと家康み」は、これをもって最終回となります。皆さまからたくさんの応援メッセージをいただきましたことを心からお礼申し上げます。長い間のご愛顧、本当にありがとうございました。