家康公エピソード「磯田道史のちょっと家康み」
※「家康公エピソードコラム 磯田道史のちょっと家康み」は、浜松市の広報誌『広報はままつ 2014年10月号』~『広報はままつ 2015年11月号』に掲載された内容となります。
家康公年表
1542年(1歳)
- 三河国岡崎城主、松平家8代当主広忠の長男(竹千代)として生まれる。
1544年(3歳)
- 母、於大の方と、離縁により生き別れる
人質生活
1547年頃(6歳~8歳)
- 尾張国の織田家の人質となる
1549年(8歳)
- 駿河国の今川義元のもとで人質として過ごす
1549年(8歳)
- 父、松平広忠の死により、駿府に居ながら松平家当主に。
1555年(14歳)
- 元服し、松平次郎三郎元信となった
1557年(16歳)
- 蔵人元康と改名・・・・瀬名姫(今川義元の姪)と結婚
1558年(17歳)
- 初陣・・・西三河攻め(大樹寺和尚が加勢)
1559年(18歳)
- 嫡男竹千代(岡崎信康)誕生(母:瀬名姫)
1560年(19歳)
- 長女亀姫誕生(母:瀬名姫)
- 今川義元の上洛戦で先鋒として岡崎衆を率い大高城への兵糧入れに成功するが、今川義元が桶狭間の戦で織田信長に討たれ三河へ帰還、菩提寺の大樹寺へと逃げ隠れた。先を見失った元康は松平家の墓前で自害を試みるが、その時13代住職の登誉上人が「厭離穢土欣求浄土」と説き、切腹を思いとどまらせたと言われる。この後今川家と決別し故郷の岡崎城に入城ここで人質時代は終了する
信長との和睦(清洲同盟)
1560年(19歳)
- 人質時代も終わり岡崎城主となったその後も尾張国織田家と対立は続く
1562年(21歳)
- 伯父の水野信元の斡旋により織田信長と和睦「清洲同盟」を成立させる。これにより駿河国の今川家とは完全に敵対関係になる。
1563年(22歳)
- 今川義元からもらった「元」を返上し「松平家康」と改名
1564年(23歳)
- 三河国一向一揆の敵対勢力に悩まされるが2年後には平定
1565年(24歳)
- 次女督姫誕生(母:西郡局)
1566年(25歳)
- 三河国を組織化し松平姓から「徳川」に改名。
遠江獲得
1568年(27歳)
- 甲斐国の武田信玄と同盟し今川家を攻め遠江国の大部分を獲得
- 遠江国の引間城(浜松城)攻めを開始
1569年(28歳)
- 掛川城の今川氏真を攻め駿河国に追う・・・・・掛川城の戦い
- 武田信玄から一方的に同盟を破棄され、遠江国を攻められる・・武田家と敵対関係に
遠江国(浜松時代)
1570年(29歳)
- 武田への防衛強化のため遠江国引間城を落城、岡崎城は嫡男信康(16歳)に任せ、居城を移し浜松城築城始める
- 織田信長に従い、越前国の朝倉義景攻めに向かうが浅井長政の裏切りにあい退却。すぐに軍備を整え姉川の戦に挑み、織田信長の危機を救うなどの功をたてる・・・・・・(姉川の戦い)織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍との戦い
大敗と大勝
1572年(31歳)
- 甲斐国の武田信玄の上洛戦途上の合戦で大敗・・・・三方ヶ原の戦(生涯最大の敗北)
1573年(32歳)
- 武田信玄の死により危機を回避出来た、そのことに喜ぶ家臣に「隣国に最強の武田軍が居たからこそ我々は強くなれたのだ、喜ぶべきことではない」と戒めた
1574年(33歳)
- 次男於義丸(結城秀康)誕生(小督局)
- 武田勝頼に遠江国高天神城を奪われる・・・高天神城の戦
- 1575年(34歳)武田勝頼に三河国北部(奥三河)の長篠城を攻められるが信長の協力のもと勝利・・・・長篠の戦い(設楽ヶ原の戦い)
- 遠江国諏訪原城攻略
- 遠江国二俣城攻略
1576年(35歳)
- 遠江国犬居城攻略
1578年(37歳)
- 浜松城完成
正室・嫡男殺害
1579年(38歳)
- 三男長松丸(徳川秀忠)誕生(母:西郷局)
- 正室の築山御前と嫡男の信康が甲斐国武田と内通していると疑われ処刑を信長から命令された
- 正室築山御前を護送途中(浜松市佐鳴湖畔にて)暗殺・・・・太刀洗の池
- 松平信康を二俣城にて切腹させる・・・・信康事件
1580年(39歳)
- 四男福松丸(松平忠吉)誕生(母:西郷局)
- 三女振姫誕生(母:於竹の方)
遠江回復と駿河獲得
1581年(40歳)
- 武田勝頼に奪われていた遠江国高天神城を攻め奪回
1582年(41歳)
- 織田信長と武田勝頼を攻める・・・天目山の戦
- 駿河国田中城を攻略、武田家家臣穴山梅雪を降参させ武田氏滅亡
- 武田家の旧領駿河国を加増
- 穴山梅雪を伴い安土城の織田信長に表敬訪問
信長の死
1582年(41歳)
- 本能寺の変で信長が討ち死に
- 少人数で堺を観光中だった家康は信長の死を知り、茶屋清延の協力で伊賀国経由で三河国へ無事帰還・・・・伊賀越え
甲斐・信濃の併呑
1582年(41歳)
- 天正壬午の乱で戦った北条氏直と和睦
- 武田氏旧領の甲斐国、信濃国に進出、大部分を所領とする
1583年(42歳)
- 五男万千代(武田信吉)誕生(母:下山殿)
秀吉との争い
1584年(43歳)
- 信長二男織田信雄の要請により、羽柴(豊臣)秀吉と小牧・長久手の戦を起こすも決着せず和睦
- 次男、於義丸(結城秀康<羽柴秀康>)を秀吉の養子にする
- その後、羽柴(豊臣)秀吉からの再三の上洛命令を拒否
1585年(44歳)
- 羽柴(豊臣)秀吉が関白となる
- 家康の懐刀石川数正が豊臣秀吉に寝返る
1586年(45歳)
- 豊臣秀吉の妹、旭姫と再婚
- 豊臣秀吉が、実母の大政所を家康の岡崎城に送り込む
- 大坂城に上洛し豊臣秀吉の臣下になる
駿府時代
1586年(45歳)
- 浜松城から駿府へ居城を移す(三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五カ国を領土とする)
関東移封
1590年(49歳)
- 豊臣連合軍として参陣、関東の北条氏を滅ぼす・・・小田原攻め
- 秀吉からの関東約255万石への移封命令(完成間近の五カ国と交換)に従い武蔵国(江戸城)を居城とする
- その後の豊臣政権では五大老の筆頭として活躍
- 五大老とは(徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家)
- 五奉行とは(石田三成・浅野長政・増田長盛・長束正家・前田玄以)
1592年(51歳)
- 六男辰千代(松平忠輝)誕生(母:茶阿局)
1594年(53歳)
- 七男松千代誕生(母:茶阿局)
1595年(54歳)
- 八男仙千代誕生(母:於亀の方)
- 四女松姫誕生
天下人へ
1598年(57歳)
- 豊臣秀吉死没
1599年(58歳)
- 秀吉の遺命に背き豊臣家の譜代大名らとの婚姻関係を次々と結ぶ
- 前田利家・石田三成らから猛反発を受けたことから対立が始まる
- 敵対していた前田利家が病没
- 武断派七将による石田三成襲撃未遂事件勃発、石田三成は失脚
- 伏見城へ入城し政務を行う
- 秀吉の遺命に背き、伏見城から大坂城西の丸に移り政務を行う
- 前田利長らによる、家康暗殺未遂事件
- 加賀国の前田攻めを計画するが、前田利長の母、芳春院(まつ)が人質として江戸に下ることで解決(これにより前田家は徳川家の配下に)
天下分け目の関ヶ原合戦
1600年(59歳)
- 九男五郎太丸(徳川義直)誕生(母:於亀の方)
- 上杉景勝の謀反を口実に諸将を率いて会津攻めに向かう
- 大坂において石田三成や小西行長らが毛利輝元を総大将とし戦が始まる
- 家臣の鳥居元忠の守る伏見城が西軍に攻められ落城
- 関ヶ原の戦で西軍に勝利、天下人になる
1602年(61歳)
- 十男長福丸(徳川頼宣)誕生(母:蔭山殿)
1603年(62歳)
- 十一男鶴千代(徳川頼房)誕生(母:蔭山殿)
- 武蔵国江戸に幕府を開き、伏見城において征夷大将軍の宣旨を受ける
大御所
1605年(64歳)
- 徳川秀忠に征夷大将軍職を譲り、大御所となる
1607年(66歳)
- 五女市姫誕生(母:於梶の方)
- 江戸城から、駿河国駿府城に移る
1611年(70歳)
- 二条城で豊臣秀頼と会見。
豊臣滅亡作戦
1614年(73歳)
- 金地院崇伝の草案による方広寺鐘銘事件
- 大坂冬の陣勃発
1615年(74歳)
- 豊臣氏(豊臣秀頼)を、大坂夏の陣で攻め滅ぼす
- 一国一城令を出す。
1616年(75歳)
- 死没。1616年5月22日(元和2年4月17日) (享年75歳)